18世紀、様々な流派が百花繚乱のごとく咲き乱れる京都で、円山応挙は写生画で一世を風靡し円山派を確立しました。また、与謝蕪村に学び応挙にも師事した呉春によって四条派が興り、写生画に瀟洒な情趣を加味して新たな一派が誕生します。
この二派は円山・四条派としてその後の京都の主流となり、近代にいたるまで京都画壇に大きな影響を及ぼしました。
丸山応挙から近代京都画壇へ
本展は、応挙、呉春を起点として、長沢芦雪、渡辺南岳、岸駒、岸竹堂、幸野楳嶺、塩川文麟、森徹山、菊池芳文、竹内栖鳳、山元春挙、上村松園ら近世から近代へと引き継がれた画家たちの系譜を、一挙にたどります。
また、自然、人物、動物といったテーマを設定することによって、その表現の特徴を丁寧に追います。日本美術史のなかで重要な位置を占める円山・四条派の系譜が、いかに近代日本画へと継承されたのか。これまでにない最大規模でその全貌に迫る、圧巻の展覧会です。
江戸時代、京都では、伝統的な流派である京狩野、土佐派をはじめとして、池大雅や与謝蕪村などの文人画、近年一大ブームを巻き起こした伊藤若冲や曽我蕭白、岸駒を祖とする岸派や原在中の原派、大坂でも活躍した森派など、様々な画家や流派が群雄割拠のごとく特色のある画風を確立していました。
しかし、明治維新以降、京都画壇の主流派となったのは円山・四条派でした。円山・四条派とは、文字通り円山派と四条派を融合した流派です。
円山派の祖である円山応挙が現れたことで京都画壇の様相は一変しました。応挙が得意とした写生画は画題の解釈を必要とせず、見るだけで楽しめる精密な筆致が多くの人に受け入れられ、爆発的な人気を博しました。京都の画家たちはこぞって写生画を描くようになり、応挙のもとには多くの門下生が集まって、円山派という一流派を形成しました。
四条派の祖である呉春は、初め与謝蕪村に学び、蕪村没後は応挙の画風を学んだことで、応挙の写生画に蕪村の瀟洒な情趣を加味した画風を確立しました。呉春の住まいが四条にあったため四条派と呼ばれたこの画風は、弟の松村景文や岡本豊彦などの弟子たちに受け継がれ、京都の主流派となりました。呉春が応挙の画風を学んでいる上、幸野楳嶺のように円山派の中島来章と四条派の塩川文麟の両者に師事した画家も現れたこともあり、いつの頃からか円山派と四条派を合わせて円山・四条派と呼ぶようになりました。
応挙・呉春を源泉とする円山・四条派の流れは、鈴木百年、岸竹堂、幸野楳嶺等へと受け継がれ、それぞれの門下から、近代京都画壇を牽引した竹内栖鳳、山元春挙、今尾景年、上村松園等を輩出しました。彼らは博覧会や、日本で初めての公設美術展覧会である文部省美術展覧会で活躍し、全国に円山・四条派の名を広めました。一方で、栖鳳たちは、自身の塾や、教鞭を執った京都府画学校や京都市立美術工芸学校、京都市立絵画専門学校で多くの近代京画壇の発展に資する後進たちを育てています。
本展では、応挙、呉春から戦前までの系譜を丁寧に追うことで、円山・四条派の全貌に迫るとともに、日本美術史のなかで重要な位置を占める京都画壇の様相の一端を明らかにするものです。
みどころ
すべては応挙にはじまる
自然や花鳥、動物を生き生きと写し取った斬新な応挙の画風は、たちまち京都で評判となった。63歳の生涯を閉じたときには、息子の応瑞をはじめとして源琦、山口素絢、渡辺南岳ら多くの門弟たちが育っていた。奇想の画家と称せられる長沢芦雪もそのひとりである。また、与謝蕪村の高弟だった呉春も晩年の応挙に弟子入りを乞うが、応挙は親友として迎え入れたと伝えられる。呉春は南画と写生画とを融合した画風で四条派と呼ばれるようになり、円山派と四条派はその後の京都画壇の中心を成していった。そして派生的に生まれた原派、岸派、森派、鈴木派など多くの画系が複雑に絡みながら近代の京都画壇へと引き継がれていった。
重要文化財
円山応挙「写生図巻(甲巻)」(部分)
明和8年~安永元年(1771-72)株式会社 千總蔵
山、川、滝。自然を写す。
応挙の登場までは、絵画の基本はやまと絵か中国画だった。そこでは、自然を描くといっても、現実とは違った名所絵の世界か、見たこともない山水世界が描かれてきた。応挙は、まず実際の場所を好んで描き、さらにその場に立って観た時の臨場感までをも写し出そうと試みた。保津川や嵐山などの画題は、その後、円山・四条派の系譜で繰り返し取り上げられている。また、遠近法を踏まえて見えた通りに描こうとする表現方法は山水画というよりも風景画に通じる側面があり、円山・四条派の作風はより自然なかたちで近代絵画へと変化していった。
重要文化財
円山応挙「保津川図」
寛政7年(1795)株式会社 千總蔵
美人、仙人。物語を紡ぐ。
応挙が美人画にも新生面を拓いたことは意外に知られていない。唐美人と呼ばれる中国の貴婦人を描く伝統を踏まえたものだが、狩野派や南画系の画家たちとは一線を画した温和で品格ある女性表現を生み出した。また、古くから画題としてきた仙人や、物語の登場人物を描く人物画はその後の円山・四条派でも盛んに描かれている。近代になるとジャンルとしての人物画の評価が高まるが、東京画壇で歴史画が隆盛したのに対して京都画壇では自然や動物が根強い人気を保った。その中で、上村松園が近代美人画の世界を確立した意義は大きいが、それは応挙の美人画に端を発する長い伝統に位置づけられるものだった。
重要美術品円山応挙「江口君図」
寛政6年(1794)
静嘉堂文庫美術館蔵
孔雀、虎、犬。命を描く。
鳳凰や龍といった架空の 動物よりも、孔雀や鶴、虎、犬、猿、鹿など生きた鳥や動物たちをよく観察して描こうとした応挙。鳥の羽根の一枚、動物の毛の一本までも写し取ろうとしたその作画態度は弟子たちに引き継がれ、猿を得意とする森派、虎を得意とする岸派などが人気を博した。いずれも、生き生きとした動きのある姿に描こうとする「写生」に徹したところに特徴があり、その伝統は近代になっても京都画壇の重要な特性として受け継がれていった。近代画家たちは応挙以来の写生に西洋的な写実画法を加味して新たな表現を生み出したが、竹内栖鳳はさらに簡素で洒脱なスタイルを確立し一世を風靡した。
長沢芦雪「薔薇蝶狗子図」
寛政後期頃(c.1794 –99)
愛知県美術館蔵(木村定三コレクション)
重要文化財の襖絵群を再現展示
大乗寺の雰囲気をそのままに体感できる贅沢な立体的展示を実現。
兵庫県の日本海側にある香美町にある大乗寺は、一名を応挙寺という。
1787(天明7)年、応挙は同寺と障壁画制作の契約を交わすと、客殿各室の全体構成を考え、一門を率いてこれにあたった。応挙は最初に山水の間、芭蕉の間(郭子儀図)を描き、亡くなる年(1795年)に孔雀の間を描く。応挙自身が大乗寺を訪れたという記録はなく、京都の画室で制作したものを弟子たちに委ねたものと考えられている。本展では、「松に孔雀図」、「郭子儀図」(京都展のみ展示)など客殿の応挙作品を中心に再現展示することによって、応瑞、呉春、山本守礼など円山・四条派の系譜を合わせて立体的に鑑賞することができる。
兵庫県北部、山陰海岸国立公園を臨む大乗寺
客殿には、応挙をはじめ息子や門人たち総勢13名が揮毫した165面の障壁画が収められ、いつの頃からか、「応挙寺」と呼ばれ親しまれています。
近年応挙の研究が進むとともに、大乗寺では障壁画で囲まれる各部屋の空間が立体曼荼羅を構成しており、宗教的空間の具現化を意図したものではないかといわれています。応挙は絵画の美術的評価に加えて空間プロデューサーとしての側面が再評価されています。
円山応拳
開催概要
- 会場:東京藝術大学大学美術館[台東区・上野公園] 東京都台東区上野公園12-8
- 会期:2019年8月3日 [土]~9月29日 [日]
- 休館日:毎週月曜日(祝日又は振替休日の場合は開館、翌日休館)
- 開館時間:午前10時~午後5時(入館は閉館の30分前まで)
- 観覧料:詳細は「チケット」でご確認ください
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