先日、スペインのラニャドイロ村の教会にある500年前に作られたマリア像が残念に仕上げられるという記事が世界中を驚かせていました。協会の責任者に許可を取って修復を行った女性は、“I am not a professional, simply the figures were horrifying and I wanted to paint them to make them better.”(私はプロじゃない。率直に像は恐ろしいけど、私はあの像を今よりよくしたかったのよ。)と地元紙に反論したとあります。本人が意図せず批判にさらされるアートって結構あります。
ときどき起きる残念な補修
今回の騒動では、2012年の「劇的に変わってしまった」キリストのフレスコ画(スペイン北東部ボルハの教会にある19世紀の画家エリアス・ガルシア・マルティネスの作品)も件についても伝えられています。当時、修復した女性は、「頼まれてやっただけ」と回答していましたが、残念な修復が施されてしまったキリストのフレスコ画はすっかり観光客であふれてしまったようで、よかったのか悪かったのかよく分かりません。
スペインでは、歴史的な文化財が市民?によって修復されやすい土地柄なのでしょうかね。と、思っていたら、日本でも同じような事案があったのを思い出しました。日光東照宮の「三猿(みざる・いわざる・きかざる)と「眠り猫」です。猿たちの表情が「やばい」のと、猫の毛の流れがありえないなど、各方面で批判が殺到していたようです。こちらはプロの方が修復したようですが、美的な専門性はお持ちでないとの指摘を受けていました。
スペインでも日本でも文化財の修復は、やっぱり専門家が行ったほうがよいとは思うのですが、修復した当人は、こんなに批判にさらされるとは思っていなかっただろうと思います。
アートと批判
文化財のそれとは異なりますが、アートの世界では、新しいタイプの作品が発表されるたびに、批判が沸き上がる構造です。モディリアーニの裸婦画やデュシャンの便器などなど。批判は新しい視点が生まれる瞬間なのかもしれません。
最近、賛否両論があった作品として、ヤノベケンジ氏の《サン・チャイルド》があります。
サン・チャイルドは復興の象徴を意図して、福島県福島市のJR福島駅近くに設置されましたが、設置直後から、市民からは「放射線がゼロなどありえない」「福島は防護服が必要なのだと誤解させる」との声が相次いだといいます。
福島空港に設置された際は、概ね好意的な評判だったのが、場所が変わると意見が変わるということでしょうか。
個人的に、以前からこの作品を知っていましたが、福島に設置されると聞いた時、「大丈夫なのかな?」と思っていましたが、そう感じた方も多かったのだと思います。表現がやや直接過ぎる感じです。
今回の一件は、意図せず批判を受ける形となり、誰が悪いわけではありませんが、作家が謝罪するという流れとなってしまいました。
批判と撤去については残念なことですが、パブリックアートとはどうあるべきか、一石を投じたという点で、大変興味深い出来事でした。
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